「感動を与えたい」への違和感を考える

町田樹さんの「アスリートが「感動を与えたい」という違和感──元フィギュアスケーター・町田樹がいま伝えたいこと」(リンク)という記事を読んで、腑に落ちる箇所・腑に落ちない箇所がありました。

アスリートが発言する「感動を与えたい」とは何か?を私なりに考えてみましたのでまとめてみます。

目次

共感できるところ

「感動するかどうか」は受け手に依存する

「そして本来、感動するか否かは受け手に委ねられているものです。Aさんは感動しても、Bさんは感動しないことだって普通にあり得ます。それはフィギュアでも同じです。

これは全くもってその通り。

アスリートは自らが最高のパフォーマンスを行うことに集中する。そのパフォーマンスはジャッジがルールに則って適切に評価されますが、「感動する」主体である観客には、それぞれに感動するポイントは異なっているわけで、「これをすれば感動する」というものは一つもありません。

あらゆる人が好きなものなんてあるはずがないし、むしろそんなものあった方が恐ろしい。大多数の人が…はあるかもしれないけれど。感動するかどうかも同じで、あらゆる人が感動するものなんて存在しない。

そもそも「感動」とは何か?漠然とした「感動」のイメージはわかるけど、「感動」をどのように定義するのかは人それぞれ。

そう考えると、「感動」の定義も人によって微妙に異なるだろうし、仮に同じ「感動」の定義を有した人がいたとしても、「感動」するかどうかは人それぞれ異なるだろうと思います。

余談ですが、「この人の演技を観ても感動しない~」という言説を見かけることがまれにありますが、感動する主体はあなたなので競技者の演技が悪いわけでは全くないということですね。

競技を行うだけで役割を果たしている

そもそもスポーツは、たとえ経済発展や平和の創造や感動を与えることに貢献しなかったとしても、この人間社会において、古代から脈々と継承されてきた、かけがえのない『文化』なのです。ですから、アスリートとして誇りを持つべきです。アスリートは競技を行うだけで、すでに十分に役割を果たしていると私は思います

アスリートは競技を行うだけで、十分に役割を果たしているという点は非常に共感できます。

ただし、その理由は町田さんとは異なります。町田さんは「スポーツはこれまで継承されてきた文化なのだから」競技を行うだけでアスリートとしての役割を果たしていると述べました。私は単純に、アスリートは競技を行うべくアスリートなのだから、競技に取り組んでいれば自ずとアスリートとしての役割を果たしていると思います。

例えば、学生は勉学に取り組むべく学生だし、会社員は社業に取り組むべく会社員です。それであれば、アスリートは競技に取り組むべくアスリートなのだから、競技に取り組んでいれば自らの役割は十分に果たしているのです。

思うこと

「感動を与えたい」と言わせる環境の問題

町田さんも最後の方で言及していますが、アスリートが「感動を与えたい」と発言することになる環境こそが問題なのではないか?と思います。

「優勝したい」「メダルを取りたい」というコメントをして自らにプレッシャーをかけるよりも、「感動を与えたい」というコメントの方が自らにプレッシャーがかかりにくい。むしろ、「感動を与えたい」とコメントした方が謙虚のような雰囲気すらあります。

アスリートが進んで「感動させたい」というコメントをしているというよりは、むしろ「感動を与えたい」とコメントせざるを得ない、コメントした方が自らに利があるようなアスリートを取り巻く環境の方が問題なのではないか?と思いました。

自分が感動したい?

これはひねくれた意見かもしれませんが、無意識のうちに、感動した多くの観客を見て自らが感動したいのではないか?親しい人に感動してもらって嬉しく感じたいのではないか?とも思いました。

演技後、感動してスタンディングオベーションする観客を見たいのではなく、感動してスタンディングオベーションする観客を見て自らの感情が高ぶる瞬間を迎えたいのではないか。また、演技後に親しい人に感動してもらい、喜んでもらうことで、自らも喜びを得たいのではないか。

これらが無意識のうちに「感動を与えたい」というコメントになっているのではないかと思いました。

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この記事を書いた人

ただのフィギュアスケートファン。フィギュアスケート現地観戦し始めて10年前後。現在も日本国内の大会・アイスショーに出没しています。
このブログでは現地観戦の感想、日々感じたことをのんびり書いています。

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