はじめに:なぜ今、再び「トゥーランドット」なのか
2006年トリノ五輪で荒川静香が金メダル。
2018年平昌五輪で宇野昌磨が銀メダルを獲得。
フィギュアスケートにおける王道の勝負曲である「トゥーランドット」。
しかし、鍵山優真が2026年ミラノ五輪で選んだ「トゥーランドット」は、過去のどの「トゥーランドット」とも異なります。
それは、新たに書き直されたトゥーランドットだからです。
プッチーニの未完成オペラ「トゥーランドット」
オペラ『トゥーランドット』とは?
まず、このオペラの物語を確認しておきましょう。
オペラ『トゥーランドット』のあらすじ
【1幕】運命の出会い
亡国の王子カラフは、放浪の末に中国・北京へたどり着く。
王宮前の広場では、トゥーランドット姫に求婚し、謎解きに失敗した王子の処刑が行われようとしていた。
群衆の中でカラフは、国を追われた父王ティムールと、付き従う侍女リューと再会する。
処刑される王子を見ようと身を乗り出したカラフは、そこで初めてトゥーランドット姫の姿を目にする。
「氷の姫」と恐れられる一方、その圧倒的な美しさにカラフは一瞬で心を奪われてしまう。
リューや父王、さらには周囲の制止も聞かず、命を賭して謎への挑戦を決意する。
【2幕】謎解きと新たな賭け
カラフはトゥーランドット姫が課す三つの謎に挑み、すべての謎を見事に解き明かす。
群衆は歓喜するが、姫はなお結婚を拒み、屈辱と恐怖から動揺を隠せない。
そこでカラフは、無理に結婚を迫るのではなく、逆に姫に謎を一つ出す。
「明日の朝までに私の名前を当てられたなら、私は命を差し出そう」
姫は民衆に「王子の名が分かるまで、今夜は誰も寝てはならぬ」と命じる。
【3幕前半】リューの死(ここまでがプッチーニ完成部分)
役人たちはカラフの素性を探る中で、彼と親しく話していた父王ティムールと侍女リューを捕らえる。
拷問を受けながらも、リューは王子の名を決して明かそうとしない。
「彼の名は、私の心の中にあります」と語り、王子の名前を明かさない理由を「愛」だと告げる。
そして、リューは王子を守るため自ら命を絶つ…。
ここまでがプッチーニが書き残した音楽です。その先の結末は、彼の死により未完成のまま残されました。
プッチーニの死と「未完成」の真実
プッチーニは、『トゥーランドット』を完成させる前に亡くなってしまいました。
リューが死んだ後のシーンを完成できないままプッチーニは亡くなったので、3幕の後半は別の方(フランコ・アルファーノ)が作曲して、オペラが公開されました。
つまり、私たちがこれまで聴いてきた「トゥーランドット」の結末は、プッチーニ本人が書いたものではなかったのです。
アルファーノ版の「不自然なエンディング」
強引すぎるハッピーエンディング
フランコ・アルファーノが描く「トゥーランドット」のエンディングはこうです。
リューの死に動揺するトゥーランドット姫に対し、カラフは「氷の姫よ、現実の世界に降りてきなさい」と呼びかけます。しかし、姫はなお心を閉ざします。
そこでカラフはトゥーランドット姫にキスをします。
姫は初めて他者の愛に触れたことで動揺し、泣き崩れます。
姫は屈辱と恐れからカラフを遠ざけようとしますが、カラフは自ら名を明かし、命を差し出す覚悟を示します。
最終場面で姫は民衆の前に立ち、「この男の名は……愛」と宣言します。
民衆は二人の結びつきを祝福し、壮大な合唱の中で物語は強引なまでの大団円を迎えます。
なぜ「不自然」なのか
アルファーノ版の結末が「不自然」と感じられる最大の理由は、トゥーランドット姫がなぜカラフに恋に落ちたのか、その心理的なプロセスがほとんど描かれていない点でしょう。
物語では、カラフが姫にキスをした瞬間、まるで魔法にかかったかのように、冷酷で恐怖を支配の武器としてきたトゥーランドットが、一転して恋に戸惑う少女へと変化します。
ファンタジーやアニメ的な表現としては、よくある話でもあります。
毒林檎を食べて息絶えた白雪姫は、王子のキスによって息を吹き返しますよね。
しかし、現実に起こりえるか?と考えると、その変化はあまりにも唐突で、説得力に欠けています。
さらに、トゥーランドットが心を開いた「後」に、カラフが自らの名を明かすという展開も、違和感を覚えやすいポイントです。
彼は、姫が拒絶や処刑という「危険な存在」であるうちは沈黙を守り、姫が恋に落ちて”安全な存在”になった段階でのみ正体を明かしています。
この構図は、情熱的な愛の告白というよりも、どこか計算高さを感じさせてしまいます。
このように、アルファーノ版は、強引かつ短絡すぎる「不自然な」ハッピーエンディングとなっていました。
クリストファー・ティン版「ニューエンディング」の誕生
アルファーノ版の問題を解決する4つの工夫
アルファーノ版の「不自然な」エンディングを克服するために、クリストファー・ティン版「ニューエンディング」は4つのストーリー改変を行いました。
1. 父皇帝アルトゥムの死
第3幕の前にトゥーランドット姫の父であるアルトゥムが死去し、姫が王位継承者に。
これにより、カラフの名前を特定することは単なる恋愛ゲームではなく、国家の存亡をかけた問題になります。
2. 氷の姫になった理由
トゥーランドット姫はカラフに、自らが暴行の被害者であったことを明かします。
つまり、彼女が「氷の姫」になったのは、トラウマからの自己防衛だったことが明らかになります。
3. カラフの自発的な名乗り
トゥーランドット姫のこの告白を聞いた後、カラフは自ら彼女に自分の名前を明かす。
——このことこそが、彼女の「心の氷」を解く鍵(山)となります。
アルファーノ版では「姫が魔法にかかってから」名を明かしましたが、ティン版では姫の痛みを理解した上で、命を差し出すのです。
4. トゥーランドットからのキス
カラフが他の求婚者とは違うと悟った後、キスを始めるのはトゥーランドット姫自身です。
強制されるのではなく、自らの意志でカラフを、愛を選ぶトゥーランドット姫を描きました。
なぜ鍵山優真に「ニューエンディング」がぴったりなのか
鍵山「優真」の集大成
鍵山優真版「トゥーランドット」のテーマは誰がどう見ても「愛」でしょう。
ハイライトの一つである中盤のイーグル。ここはトゥーランドット姫がカラフにキスをするシーンなわけですが、多幸感で溢れます。そして、プログラム後半は、「心の氷」が溶けたトゥーランドット姫。
このプログラムがどの場面を当てているかは、クリストファー・ティンが鍵山優真の演技と共に紹介しています。
これを見ると、プログラムの解像度が格段に上がるので視聴をおすすめします。
このプログラムを滑ることを発表した時、彼は「ある意味、集大成」と話しました。
それはもちろん勝負のオリンピックシーズンだからという意味や、今シーズンが終わった後のことは何も考えていないという発言だったりという意味での集大成もあると思います。
ただ、それ以上に、このクリストファー・ティン版「トゥーランドット」が描くカラフ王子が鍵山優真ととても重なりました。それは、カラフ王子が、そして鍵山優真が名前が示す通り、優しく、真っすぐな青年だからです。優しく、真っすぐに育った優真さんの集大成というわけですね。
ティン版のカラフ王子は、トゥーランドット姫に一目惚れ。
父王の反対を押し切って、トゥーランドット姫に挑戦。
トゥーランドットの痛みを理解し、自ら命を差し出すことで、彼女の心の氷を溶かします。
鍵山優真は、フィギュアスケートそのものを愛しました。
5歳の頃「パパがオリンピックに出て~スケート始めようかなと思いました!」というかわいすぎる映像が残っていますね。当時も今もかわいすぎます(話がそれました)。
お父さんであるパパちこと鍵山正和コーチは、自らもフィギュアスケートのオリンピアンであり厳しさをわかっていたことから、優真さんがフィギュアスケートの道に進むことに対して複雑な感情を持っていたとのこと。それでも彼は、フィギュアスケートへの愛を貫いたわけですね。
そして、彼の競技への向き合い方は誰かを打ち負かすのではない。自らの理想とするスケートを追い求める純粋な愛を持ち続け、ミラノオリンピックでは銀メダルを獲得しました。
鍵山優真だからこそ、この「相手に寄り添う純粋な愛」を表現できるんでしょうね。

