『シェルブールの雨傘』考察:全員が幸せで、全員が不幸せな物語

フィギュアスケートでもしばしば用いられる『シェルブールの雨傘』

最も有名なプログラムで言うと、テッサ・ヴァーチュ/スコット・モイア組の2007/08シーズンのフリーダンスでしょうか。今シーズンは三浦佳生選手がフリースケーティングで使用していますね。

個人的にすごくお気に入りの映画ということもあり、フィギュアスケートの『シェルブールの雨傘』のプログラムをより理解するためにも、映画そのものの考察を書いてみたいと思います。


目次

ストーリー

アルジェリア戦争下のフランス、港町シェルブール。
自動車整備工のギイと、傘屋の娘ジュヌヴィエーヴは若い恋人同士だった。
二人は将来を語り合い、生まれてくる子どもの名前を
「男ならフランソワ、女ならフランソワーズ」と決めている。

しかしギイに召集令状が届き、彼は戦地へ送られる。

ギイの不在のなか、
ギイの子供を妊娠したジュヌヴィエーヴは
生活の不安から宝石商カサールとの結婚を選び、母とともにパリへ移住する。
一方、帰還したギイは失意の末に立ち直り、幼なじみのマドレーヌと結婚し、念願だったガソリンスタンドを開く。

数年後、雪の降る夜。
ギイが働くガソリンスタンドに
ジュヌヴィエーヴが偶然娘を連れて現れる。
娘の名はフランソワーズだった。

短い会話のあと、
二人は互いの幸せを確認し、別れる。
ジュヌヴィエーヴの車が去ると、
入れ替わるようにマドレーヌと息子フランソワが帰ってくる。
映画は、そのまま終わる。


シェルブールの雨傘という作品の特徴

この映画には、はっきりとした特徴がある。
登場人物の台詞が、すべて歌で語られるという点だ。

感情的な場面も、日常的な会話も、
すべて旋律に乗せて表現される。

そのため、
登場人物たちは感情を「説明」しない。
それをどう受け取るかは観客に委ねられている。


ラストシーンは偶然ではない

物語のラストシーン
雪の降る夜。
シェルブールのギイが働くガソリンスタンドで、ギイとジュヌヴィエーブは再会する。

ジュヌヴィエーブはこの再会を「本当に偶然だわ」とギイに話す。
偶然立ち寄ったガソリンスタンドにギイが働いていたと。
しかし、地理的に考えると、その説明にはやや無理がある。

ジュヌヴィエーブは、アンジェに住む義母の家から、自宅があるパリに帰る途中だったと話している。
帰路で回り道をしてシェルブールに立ち寄り、ガソリンスタンドに入ると偶然ギイが働いていたと。
だが、アンジェからパリへ向かう途中で、
わざわざシェルブールに立ち寄るのは、
単なる寄り道というには距離が離れすぎている。

位置関係を日本に置き換えるなら、
名古屋から東京へ帰る途中で、
金沢に寄ってから再び東京へ向かう
ようなもの。
「単なる寄り道」と言うには、かなり意識的な回り道になる。

つまり、ジュヌヴィエーブは何らかの目的を持ってシェルブールへ向かったと考えた方が自然だろう。


ジュヌヴィエーブは、ギイに会いに来たのではないか

再会した瞬間の反応にも差がある。
ギイが驚きで言葉を失っているのに対し、ジュヌヴィエーブはそこまで動揺していない。

会話の内容も示唆的だ。

ギイに子どもの名前を尋ねられると、彼女は「フランソワーズ」と答える。
さらに、「あなたによく似ている。会ってみる?」と、
自分から子どもを引き合わせようとする。

フランソワーズという名前は、
かつてギイと「男ならフランソワ、女ならフランソワーズ」
と話していた名前そのものだ。

つまりジュヌヴィエーブは、
過去の恋人との未来で想定していた名前を、
現在の人生の中に持ち込んでいる

別れ際、彼女はギイに「今、幸せ?」と問いかけ、
「幸せだよ」と答えられると、名残惜しそうに彼を見つめて去っていく。

ジュヌヴィエーブは裕福な暮らしをしている。
それは彼女の服装や車を見れば明らかだろう。
しかしこの場面には、
彼女の夫であるカサールの影が一切登場しない。
また、ジュヌヴィエーブとカサール二人の間に子どももいない。

結婚生活がうまくいっていないと断定することはできない。
ただ、すべてが満たされきっているようにも見えない。

そう考えると、
忘れられない過去の恋人であるギイに、
自分の意思で会いに来た

という解釈は、かなり妥当な線ではないだろうか。


ギイもまた、過去を忘れてはいない

ギイも同じだろう。
彼がジュヌヴィエーブを忘れていないことを示す、決定的な要素がある。

それが、ギイとマドレーヌの息子の名前が、フランソワであることだ。

かつてギイとジュヌヴィエーブが
「男ならフランソワ、女ならフランソワーズ」
二人で話し合っていた名前そのものだ。

つまりギイもまた、
ジュヌヴィエーブとの未来で想定していた名前を、
現在の家庭の中に残している。

ギイは日本の観客とは異なり、フランスの位置関係がわかっている。
アンジェからパリへの帰路にシェルブールに立ち寄ったという不自然さ。
ジュヌヴィエーブが自らに会いに来たことを悟っただろう。

それでもラストシーンの場面で、
ギイはジュヌヴィエーブに「今、幸せだよ」と告げて別れる。

この言葉は、ジュヌヴィエーブを突き放すためというより、
自らの揺れ動く感情を隠すため、自分に言い聞かせる言葉のように聞こえた。


全員が幸せで、全員が不幸せ

表面的に見れば、
ジュヌヴィエーブとカサール、
ギイとマドレーヌは、
それぞれ結婚し、家庭を持ち、幸せに見える。

しかし見方を変えれば、
ジュヌヴィエーブとギイは、かつての恋を完全には断ち切れていない。
カサールやマドレーヌは、それぞれ本当に心から愛されているのかどうかは、疑問が残る。

誰かが明確に不幸なわけではない。
同時に、誰もが完全に満たされているとも言えない。

『シェルブールの雨傘』は、そうした割り切れない状態のまま、物語を終える。

だからこの映画は、
全員が幸せであり、
全員が不幸せでもある。

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この記事を書いた人

ただのフィギュアスケートファン。フィギュアスケート現地観戦し始めて10年前後。現在も日本国内の大会・アイスショーに出没しています。
このブログでは現地観戦の感想、日々感じたことをのんびり書いています。

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